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ある日、立ち寄ったレストランでカレンはイディオッツ(知的障害者)のふりをするあるグループに遭遇する。最初は困惑し、怒りを覚えるカレンだが、なぜかしだいに彼らに惹かれ始め行動を共にするようになる。彼らのコミューンで暮らすうちにある救いを得たカレンは、子供を亡くして以来帰らなかった家に戻り、自らの力で答えを出そうとするのだった…。 |
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“イディオッツ”(知的障害者)の物真似をして暮らす奇矯なグループと、彼らと偶然に出会い、そのままコミューンに紛れ込むことになるカレンの奇妙な日々。
トリアーが提唱して始まった映画運動“ドグマ95”のルールに則して作られた本作は、「映画が撮影の瞬間にフィクションを超えてしまうことをいつも追い求めてきた」というトリアー監督の面目躍如といえる野心作であると同時に、「ヒューマニズムは人間の共同生活を支えるものであるが、それは実は脆弱なコンセプトから成り立っている」と考えるトリアーが、ヒューマニズムの意味を過激な方法で問うた問題作でもある。
たとえそれがフィクションであったとしても“障害者の物真似をする”という社会的にそしりを免れない行為を目にした時、観る者が狼狽するのは何故だろう? しかしその挑発に乗せられてはいけない。トリアー作品に必ず重要なアイコンとして現れる「純粋な魂を持つがゆえに誰よりも苦しみ、痛めつけられるヒロイン」であるカレンが、自らの苦しみに向かい合おうとする衝撃的なラストシーンにこそ答えが待っている。
(雨宮) |
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